エセックスに吹く甘い潮風

タワーヒル駅で地下鉄を降りると、荘厳なロンドン塔を背後にもう一度地図を広げた。7月になり、大空には金色の太陽光線が輝き、ロンドンの街はサングラスをかけた観光客で華やいでいる。小さなスーツケースを片手に、私はフェンチャーチ・ストリート駅へと向かった。Fenchurch Streetーこの街に住んで4年という月日が経つのに、その名を一度も耳にしたことがなかった私は、ロンドンで生まれ育った友人たちに「その駅が一体どこにあるのか」と、尋ねてみたことがある。すると、その反応は共通して「その駅って、モノポリー(Monopoly)だけに存在する駅じゃないの?」と何か温かい笑みだった。20世紀初頭にアメリカ合衆国で生まれたボードゲーム・モノポリーは、英国人なら誰もが懐かしさと親しみを感じるゲームのひとつである。地図とボードゲームの上だけに記された無名の駅に始まる旅。そんな旅は、何か特別な好奇心を沸きたたせてくれる。

 タワーヒルから徒歩約7分、フェンチャーチ・ストリート駅は、こじんまりと静かだった。改札を通ると小さなベーカリーが2つ並び、焼きたてのクロワッサンや香ばしいエスプレッソの香りを漂わせている。車内でランチを取ることにした私は、野菜がたっぷり詰まったほくほくのペーストリーと、絞りたてのオレンジジュースを買った。演奏会前の息抜きに、車内でピクニックといったところだ。車窓一面に広がる鮮やかな緑の丘、点在する白い羊たち、心に安らぎを与えてくれる穏やかな牧歌的風景には、石造りの朽ちた古城へイドリー城の影もあった。1230年、ヘンリー3世により建てられたとされるへイドリー城は、もうすっかり自然に溶け込んでしまっている。列車C2Cに乗ること約45分。気が付けば、窓の向こうは一面淡いブルーに染まっていた。夏の空と青い海、その間を色とりどりのカイトが行ったりきたりしている。イングランド東部にあるエセックス州、今夜のリサイタルが開催される古風な港町リー・オン・シー(Leigh-On-Sea) はもうすぐそこである。1086年の英国土地台帳記録によると、テムズ川の河口にあるこの町は、当時から豊かな漁村として栄えていたという。「Leigh-On-Sea」という看板が見えたところで、海岸沿いを走っていたC2Cは静かに停車した。プラットフォームからはくすんだコバルトブルーの北海が見渡せ、浜辺沿いのパブのテラスには白いパラソルがずらりと並んでいる。獲りたての新鮮な魚料理が有名な、リー(Leigh)のパブだ。夏のバカンスを楽しむ人、大空を舞うカイトと海鳥、賑やかなシーフード・マーケット。この街は、「海と空の楽園」だった。塩辛いそよ風に吹かれながら、私は住宅街に入っていった。どこの家にも大きなバルコニーがあり、それぞれに夏の光を楽しむ人たちの姿がある。サングラスに水着姿で日光浴をする人、デッキチェアに腰をかけて本を読む人、のんびりとアフタヌーンティーの時間を過ごす人、この町はまさに光と風と海と一体化している。
 なだらかな丘をさらに行くと、白い石造りのメソジスト教会にたどり着いた。「この教会は、12世紀に建てられてからずーっとここにあるんだよ。」芸術監督であるデイヴィスさんは、温かい笑顔で私を教会の中へと案内してくれた。大きなドアが開いたところで、思わずはっと息を呑んだ。古く清楚な教会の外観の中は、薄暗く重苦しい威厳を感じさせるものではなく、陽気な空気を運んでくれるほどの明るい光に包まれている。何世紀という長い時の流れを経て人々の心のよりどころであったこの教会は、リーの丘から北海を眺め、この海と空の楽園を守り続けてきたのだろう。そして今は、エセックスの夏を飾るハイランド音楽祭のコンサート会場となっている。茶色の古いグランドピアノを前に「さあ、どんな音色がするのだろう。」わくわくする思いで、私は鍵盤に触れた。小さなグランドピアノから奏でられた透明な音は、天井に高く鮮明に響いた。スカルラッティ、グラナドス、太陽の国イタリアそしてスペインの空気を吸った音楽は、ここリーの潮風と絶妙に調和している。何か不思議な感覚だった。太陽が北海に沈みかける頃、メソジスト教会は、こんがり日焼けをした約300人の聴衆でいっぱいになった。夏至を過ぎたばかりの神秘的な夜空に響くピアノの音。北海に波打つ細波のような拍手喝采に、「この楽園には、風と音楽がともに生きているのだ。」私の心は震えた。ピアノと共に巡礼の年を歩み続け、「音楽ってなんて純粋なんだろう。」と思うことがある。心の中に潜む情熱、苦しみ、涙、愛、夢、希望、そして人生の哲学までもが”響き”として表現された音楽。音楽は、これほどに人間的な上、自然といつも共存してきたのだ。その時、自然から離れ、純粋な感性を忘れつつ大都市に生きている私達の姿に気が付く。そして音楽は、その素朴な心の輝きの世界に、私を連れ戻してくれる魔術を持っていた。

 翌朝、丘の上に立って私は北海を見下ろした。青く染まる海、体を通りぬけて吹く潮風、柔らかい夏の草木の香り、はるか向こうにはケント州北部の海岸線が蜃気楼のように浮かんでいる。リー・オン・シーに吹く潮風は甘い。その絵画的風景に、私は心打たれていた。光と風は一体となって、見事な芸術を作り出している。フェンチャーチ・ストリート駅までの帰路はあっという間だった。ロンドンに戻ると、街はあらゆる種類の音であふれかえっている。タワーヒル駅周辺も同じように、観光客で殺到している。はっと夢から覚めた気がした私は、髪に残った塩辛い香りをかいでほっとした。私の心には、リーの風が生んだ音楽が響いていたからだ。Fenchurch Street、無名だったその駅は今、私の心にあるモノポリーボードに深く刻み込まれている。                             
井尻 愛紗 2009年 1月9日