リーズの春に咲く物語

午後9時30分を回ったところで、その国鉄は終点リーズ駅に静かに停車した。アイポットから流れるシューマンの情熱的なクライスレリアーナの音楽に乗って、スーツケースと地図を片手に、初めての土地を踏む。3月半ば、リーズの夜風は頬にひんやりと冷たい。スカーフを巻いてタクシー乗り場まで歩くと、北イングランド訛りの愛想がいいドライバーさんに迎えられた。車道沿いに並ぶ黄色い街灯の光、古い石造りの教会、赤褐色のレンガで築かれた建築物の頭上には、ごってりとした華美な屋根がのっている。駅からザ・コールズ通りまで、タクシーに揺られること約5分、白い外壁に黒く塗られたオーク材の梁がおしゃれな今夜のホテル「42 The Calls」にたどり着いた。「42」という銀の看板には、スポットライトがロマンチックに反射している。わくわくした気分いっぱいに館内に入った私は、一瞬にしておとぎの世界に吸い込まれてしまった。白い壁に雰囲気のある黒い木のドア、リーズを代表する真っ白いバラとローズ色のプロテアのフラワーアレンジメント、英国の伝統あるその空間には、斬新な芸術が生きている。レセプションで小さな鍵を受け取ると、金の額に縁取られた水彩画が飾られた細長い廊下を歩いていった。迷路のように何度もコーナーを曲がる。212号室の黒いドアは、その一番最後の突き当たりにあった。古風に鍵を回してドアを開けると、温かい色調が素敵な寝室は広々としていた。金のノブに鏡張り扉のついた大きなクローゼット、ふかふかのダブルベッドに並ぶ6つのクッション、アンティーク調の家具。レセプションで渡されたほどよく冷たい白ワインのグラスが空っぽになったので、就寝前の紅茶を作ることにした。ベッドに座って、カモミールティーとシェフのバタークッキーを味わう。運河に面した2つの窓からは、夜の神秘的な風景が見渡せた。水に反射するオレンジ色の街頭の光と白いボートは、かすかに揺れながら静寂の闇の中に眠っている。全身に勢いよく流れるインスピレーションを感じた私は、ペンを取った。リーズの夜、そこには心に刻まれる物語の始まりがあった。

翌朝、水際のホテルのカフェで朝食をとると、コンサート会場"The Venue"(ザ・ヴェニュー)へと向かった。「リーズ国際コンサートシーズン」のイヴェントである今日のリサイタル。プログラムのハイライトは、シューマン作曲クライスレリアーナだ。1838年に作曲されたこのピアノ曲は、作家であり、画家であり、音楽家でもあったE.T.Aホフマンの著書「音楽評論集」に霊感を受けたとされている。かなわぬ恋を描いた小説と、主人公である感情的な楽長クライスラーの姿、シューマンがそこに重ね合わせたのは、恋人クララと自らの劇的な恋愛だった。この作品を演奏すると、情熱的な音楽に心震わされるだけでなく、私自身が映画の主人公を演じているような、あるいは小説上のクライスラー自身の人生を歩んだかのような不思議な感覚になる。ザ・ヴェニュー・ホールは400人に上る聴衆で満席になり、その空間は華麗なスタインウェイの響と、文学的な詩情あふれる音楽で満たされた。クライスラーの情熱の世界に、どっぷりと陶酔させられてしまったひと時。クライスレリアーナ第8番、自分の人生に暗い影を感じた楽長クライスラーが、ある日卒然と姿を消したように、繰り返される不安で謎めいたテーマも、足音が遠ざかったようにやがて消えてしまう。沈黙の空気中に残されたのは、余韻。その時、余韻を割って「ブラボー!」と歓声が響き、ふと我に返った。鳴り止むことのない拍手喝采だった。何度もステージに戻りながら、初めての土地、初めて出会う人々、音楽が与えてくれた神聖な感動と幸せに、心が熱くなるのを感じていた。

ホール入り口のロビーでサインを終えると、フリーバスに乗ってあても無く街の中心へ出ることにした私は、荘厳な石造りのタワー・ホール(リーズ市庁舎)がバスのフロントガラス一面に映ったところで、ブザーを押して下車した。リーズの澄み切った春の青空は、高く広がっている。アイボリー色の市庁舎は、その空いっぱいに深呼吸しているようだった。時計の針は2時半を差していた。市庁舎前広場では、黒と白の大きなクイーン、ビショップ、ナイトなどを囲んでチェスを楽しむ人々、サンドウィッチを頬張る学生達、コーヒーを片手に一息するビジネスマンが、春の憩いの空間を味わい、昼下がりの街は暖かな光に包まれている。携帯の電源を入れると、友人たちからのGood luckメッセージで受信ボックスがいっぱいになっていたが、真っ先にゴードン先生に電話をすることにした。「ハイ、愛紗!どうだった?」呼び鈴が鳴るか鳴らないうちに電話を取って下さった先生の声には、待ちきれなかったというような緊迫感が響いた。「ゴードン!とっても嬉しい・・・」その後に続くはずだった言葉は、感動の涙に変わってしまった。きっとこの時、言葉はあまり必要でなかったのだろう。「おめでとう、本当に嬉しい・・・」と先生の声も感極まって震えていた。静かな場所を探して大通りを外れると、小さな公園があった。咲き始めた白い桜と、赤、黄色、紫と鮮やかなパンジー。公園には春の訪れが輝いていた。ベンチに座り、そこで30分以上ゴードンと話をした。この都市は彼の生まれ故郷でもあり、「クライスレリアーナ」は、彼自身が共に音楽の旅を歩み続けてきた大切な作品のひとつだったのだ。

公園を出ると、春風に吹かれるままにザ・ヘッドゥロー通りを歩き、ヴィクトリア・スクエアへ向かって賑やかな繁華街に入った。近代的なプラザやショッピングモールに並んで、おしゃれなカフェも目に付く。「モダンカルチャーの中核を担うこの街には、紅茶文化国には珍しく、カフェ文化が根付いている」とは、このことなのだろうか。ガラス張りの明るいカフェ、赤いガーベラが一輪飾られたテーブルが気に入ったので、そこで遅めのランチをとることにした。トスターダとカプチーノを注文する。新鮮なハーブサラダ、アボカド、えびのガーリック炒め、トマト、チーズに、レモンをジュワッと絞ったトスターダは、香ばしくておいしい。カプチーノを飲みながら再びペンを取った私は、リーズの午後に刻まれた物語を綴ることにした。ガラスの向こうに映る街を眺めながら、この街角にクライスラーの影が見える気がした。「見るもの、聞くもの、感じるもの」-インスピレーションは物語を描かせ、音楽を生んだ。そして、心に刻みこまれた感動は、いつまでもその余韻の中で輝き続けているのだろう。             井尻 愛紗 04-04-2009