ヘレンの庭に咲く白いバラ

ロンドンのパディントン駅からレッドべリーまで約3時間の列車の旅は、まるで時が静止したかのようだった。夏至の青空に浮かぶ白い雲と、緑一面に点在する綿菓子のような羊達、車窓には穏やかな牧歌的風景が広がる。ヴァイオリニストのヴァージルも、その田園風景をボーっと眺めていた。空の光に反射して、瞳は鮮やかなコバルトブルーに透き通っている。イスラエルから戻ってきたばかりのヴァージル、そして数時間前に開催されたサドラーズ・ウェルズ劇場でのリサイタルを終えたばかりの私は、ただぐったりとその硬い座席に身を沈めていた。旅は静かな休息で始まる。そもそもこのヴァージルとのデュオは、ケンジントンでたまたま乗車したバスで起こったちょっとしたドラマが幕開けだった。ピアノレッスンのため英国王立音楽大学へ向かっていた私は、ラッシュアワー時のノッティング・ヒルで52番のバスを待っていた。ところがなかなかそのバスが来ないので、ヴィクトリア行き9番バスに乗車する。次の停留所に来て、乗車してきた黒いジャケットにヴァイオリンのケースを右肩にした青年と、はっと目が合った。とりあえず、ただお互いにっこり微笑み、バスは賑やかなハイストリート・ケンジントン通りを北へと進んだ。その容姿は、どこかで見覚えがある。彼も同じことを考えているのは、何度も目が合うたびに明確になっていった。そしてハイドパークに差し掛かったとき、その横顔が1年前のアーティスト・ディプロマ・デビューリサイタルのポスターとぴったり重なりあったのだ。わずかな時間の出来事だった。ロイヤル・アルバート・ホールが前方に見え、私は”ビ!”とブザーを鳴らした。そしてバスを降りようとした時、青年は笑顔でこう言葉を残した。「確か、去年のアーティースト・ディプロマ・リサイタルのピアニストだよね?僕は、パリに住んでいるけれど、演奏活動で共演できそうならぜひ連絡してほしい。」差し出された名刺を受け取ると、バスの扉はぱしゃりと自動的に閉まった。「喜んで・・・」と私は、それ以上を言葉にする間もなく、名詞を握ったまま笑顔でその青年に手を振った。その一瞬のドラマは、気忙しいバスとタクシーの往来に、あっという間にかき消されていった。そしてこんな奇遇で出会ったヴァージルが、私のデュオパートナーである。


閑疎なレッドベリー駅へ着いたときには、ピンク色の雲の漂う淡いオレンジと薄紫のたそがれ空がなんとも神秘的だった。こってりと白いペンキが塗られたレンガ造りのホテル、レストラン、カフェの側面には、こげ茶色のオーク材がデザイン的に使われ、温かみのある町並みを作り出している。6月21日、北欧では伝統的な夏至祭、フランスでは「音楽の日」を祝福して、スポンサーであるアダムは、この町の一角にある「ヘレン」という彼の宮殿で演奏会をを企画した。1641年に建設されたその宮殿は、赤褐色のレンガと石で築き上げられ、屋内は、鮮やかな色彩が複雑に編みこまれたトルコ製の絨毯が敷かれている。空気はひんやりと冷たい。各部屋にある華やかな装飾の施された暖炉には、ぱちぱちと音を立てながら紅色の炎が煌煌と燃えていた。招待された紳士、淑女は、120人に上った。時計の針が8時を回って、シャンパンを片手に庭園を散歩し、社交に弾んでいたゲストたちは、ヘレンの音楽堂に集まった。私たちは、グリーン・ルームから古い鎧兜の飾られた薄暗い廊下を進み、音楽堂へと案内される。シャンデリアに灯された温かいろうそくの光と、華やかなイヴニングドレスに黒いスーツ姿のゲスト、繰り広げられた空間はまさに17世紀英国の優美な社交界だ。ドビュッシー、べートーヴェン、マセネ、チャイコフスキー、コミタス、サラサーテ・・・スタイルも、時代も、色彩も多様な今回のプログラム。ヴァージルの奏でる艶やかなヴァイオリンのメロディーと、ビヒスタインピアノの円やかな響きは、「音楽」という繊細なヴェールで私たちを包み込んでいく。そこには豊かな心のコミュニケーションが生きていた。それは、「音楽、芸術、文学とは、人の心に、はっと煌めいたインスピレーションの結晶だ」と改めて確信する瞬間だった。一日の情熱をすべて吸い取ってしまったたそがれ空は、いつも異なって映り、この上ないない感動を与えるように、生きてきた人生の哲学と感情の描写といえる音楽は、インスピレーションゆえいつも異なった形でその芸術を創造する。そして、ただ大切なことは、そこに残される感動があるかないか・・・。


翌朝、ヘレンの庭は、太陽の光をいっぱいに浴びて輝いていた。蓮のある噴水も、像の形に刈り取られた垣根も、すがすがしい空気に生き生きとしている。「ワインでもいかが?」よく冷えた白ワインを七分ほどに注いだ細長いワイングラスを差し出して、アダムはバラ園へと案内してくれた。程よく甘いワインを味わいながら、ヘレンの庭に続く獣道ほどの砂利道を行く。銀色の毛並みをなびかせながら、狼犬のシータも私の後に続いた。小さな扉の向こうに足を踏み入れたところで、思わずはっと息を呑んだ。明るい太陽光線は、そこで世界を2つに分けてしまっている。それは、光と緑と風とそこに咲く真っ白い華麗なバラが見事に作り出した芸術だった。アダムと私は、バラ園のベンチに腰掛け、風のささやきを聞いた。シータもベンチの下に身をおいている。ヘレンのバラ園に吹く風は甘く、無数の色彩にあふれていた。そして、どこからかドビュッシーのヴァイオリンソナタが流れているような気がした。

井尻 愛紗 8月3日 2008